グレングールドのピアノ演奏。極端に早い遅い。そういう技(技術)があってのもの。作曲者のイメージではなく、演奏者の解釈で。ラディカルだが、古典的。ピアノも改造し、コンサートはやめ、録音だけにした。
スタイルとは個性ではなく、外部との関係で生まれてきたもの。学ぶというのは教える人から学ぶという一方的なものでない。
スタイルの核は動詞で表現できる。ゆさぶるかきまぜる。受け入れる向き合う。ずらす。対話共感というのはスタイルではなく目標に過ぎない。
裸で向き合うというのはお題目。ラディカルなようで実現不可能であれば現状を補完する(旧社会党?、共産党)。ずらしていくしかないのでは。嫌うのでなく、具体的な工夫を通じて換骨奪胎的に。
工夫というのは適用するより、編み出していくもの。他人の工夫を取り入れるというのはいまいち。現場がある、個人がある(盗む?)
長野県の伊那小の総合学習。教師だけでなく、学校親地域への重層的なスタイルの変革がある。
無からうまれるのでなく、変形デフォルマシオン(メルロポンティ)である。
モラトリアム(自由な役割実験を通してその社会のある部門に自己の適所を発見する心理社会的猶予期間)。
家族は子供により育てられる。弱さは力である。
![牧師のイラスト](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEh9-3mdiUGHBxwBT1LxTfn-6Rwng2YGEx7du2E741BiN7eeXg7ZNDSM1mZJ6-z_-Ey-wpv7qM253s9MKVh9WpWhjB2_tear_YCQpxUtyJZOw4a5XXISmIGhGvSP6mhhxsSxP3IPEC75-gc/s180-c/christian_bokushi.png)
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