そのため、中庸という考え方(当時理解していた解釈)が嫌だった。なんとなく、みんなが良いというところで落ち着けとこう、間を取ろうという感じ。結局何も変わらず問題解決にならないではないかと思ったのだ。しばらくして、自分がやりたいことをするためには、中庸というスタンスでいて、実力を発揮できるようになってから自分のやりたいことをすればよいという考え方も知った。力をつけなければ何も出来ないというのは、その通りで、ただ、その力をつけていく過程で自分が変節して、理想を失っていく気がしていたのだ。例えば、官僚の腐敗のように。
でも最近の読書や経験により、中庸の理解は深まった気がする。理想というのは理想であり極端なものは間違いであったり受け入れられなかったりするのは当然である。しかも、自分の理想は他人の理想とは違うのだ。特に自分が少し変わった人間であればなおさらだ。世界は自分だけで成り立っているのではない。自分だけが理想とする社会を作るのではなく、みんなが幸せな社会を作るのが本当だろう。そうでなければ独裁者である。
反主流派の思想であったり、拗ねものであった私は、道家や墨家、禅の思想に興味を持った。道家については自分のイメージでは、無為自然なり自然信仰であったり、日本古来の八百万の神であったり、ヒンズー教的な何でもありっぽい感じだった。墨家については、今も脈々とながれている儒家思想、中央集権主義への反対勢力としての価値。禅はとくに自ら悟りを開く、お経を唱えていたら救われるような形式?葬式仏教とは違う、自分が優秀だと思える感じがあったからだ。
しかし、結局人間は一人では生きていけない。社会の中で生きていく存在である。そうした中、なんと言っても長い歴史の中受け継がれてきた思想・技等からは学ぶことが多い。自分は特殊な人間であったとしても、多くの人たちは特殊でない、もしくは全体としての人間の本質は変わっていないのだ。科学技術が進歩してきても人間の存在は進化していない、改造しても見た目だけで本質は変わっていない。
例えば墨家思想であっても、本当に優秀な思想ならなぜ跡形もなくなるような形で消えてしまったのか。受け入れられる人たちが少なかったのでは。兼愛という考えは、今こそ叫ばれる考えなのかもしれない。非攻もそうだ。ただ、人間の本質はそうでないのかもしれない。争うことで進化してきた部分はある。みんなが幸せにというのは理想論で過ぎない。結局悪平等へつながるのかもしれない。
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